Sweet Survivor

青緑の狭間に生きる

20191025

 

ここ数日考えていたことで、すきな人が今やっている仕事を否定することってすきな人を否定することにつながるのではということです

じぶんのすきなひとがすきって意味がわからないのですが、すきなひとのことを自分がすきって意味ですね。すきなひとのしあわせを祈るあまり自分好みの活動をしていないとしあわせじゃないんじゃないかと思い始めるのは違うよなあというところも思うところです。

すきなひとが自分の望んでいるような仕事をしていないことに関して「きっと彼もこう思っているはず」と言ってもいないことを捏造して発信することは、その人はおそらく本当にそう思っているから悪意なんかないんだろうけど、誰も幸せにならないことだなあと思う。誰も幸せにならないのに、しなくてもいいことをする必要があるんだろうか。そりゃ誰だってすきなひとが幸せにならないようにとは思わないのに、自分だって(口では)幸せになってほしいと言っているのにこうなってしまったら悲劇でしかない。

○○がすきなこととグループがすきなことは必ずしも一致しないなあと思う

その人がすきだからそのグループも必ずすきかっていうとそうじゃないし、そうでなきゃいけないというわけでもない。ただ、どちらかを貶めるのは違う

グループがすきじゃなきゃいけないことはないと思っている。グループのメンバーを同じ熱量で応援できるひとはすごいなあと思う。他人の好みをどうこう言わなければ内心の自由なのではとは思う。グループが足かせだ、と憎く思えるようならそれは離れ時。

グループのことに関心がない人が見たら売れてなかったんだろうけれど、その積み重ねた年月を蛇足とか無駄って切り捨てるのは違うし失礼だと思うのよ、わたしは。

他人の積み重ねた月日はその人にしかわからない価値があるし、軽々しく否定できないと思う。いくらその人をほめたたえる目的であったとしても。