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フレッシュにねむい

青緑の狭間に生きる

桐島はなぜ部活をやめたのか

最近( といっても半月前だが ) 、『桐島、部活やめるってよ』を読破した。話題になってるからといって読んでしまった高校生の自分を後悔したいくらいに傷ついたしその後の学校生活でもなんとなしにスクールカーストを気にしてしまった。自分の立ち位置ってそんなに甘いもんじゃないぞって改めて思い知らされた。なぜ、私はそんなに傷ついたのか。それには理由があった。( なお、この文章は 読書感想文の下書きなのであしからず。 )

  1. 高校生の生活の真空パック

この本全体にいえることだが、高校生という高校生のアイデンティティ、空気感が詰まっているような気がする。派手な方が休み時間も楽しくて、体育でも活躍できて、放課後も楽しい。地味な「 やつ 」は休み時間も縮こまってて、体育も縮こまってて、部活で楽しむ。こんな典型的な、高校の図を思い浮かばせる。そしてなんとなくマーチくらいに行ければいいかな、今からやれば受かるっしょみたいな楽観。反対に
このままでいいのかなという焦燥感。なんとなく、気に食わない反感。よく十代は感受性が豊かというがそれって喜と怒と悲だけに対してなんじゃないかと思うくらいこの小説にはこの三つが出てくる。部活のときに通る生暖かい風。部活終わりの汗臭さ。まるで自分が高校生に戻ったかのように。現役高校生の私にはあるあるのように共感できた。だから、見出しにつけたように高校生の真空パックしたかのような感覚になった。あの袋にあったしわがなくなるかのように。そこにあるエッセンスが読者の空気に伝染する。それが高校生ではない人にはこんな感じだったな、こうなんだと、高校生にはこのそうなんだよ!まさにこんな感じだよ!とまるでバイブルのように感じる。

  1. 過剰なスクールカースト

今まで描かれたことがなかったくらいに過剰に描かれていて、ここまで描くか!?という程。それは作者が高校を卒業してすぐというまだ記憶がしっかりしている時期に執筆したからではないか。上の立場の人たちにとっては下の人達はなんでそんなところなの?と疑問に思っていると思うし、内心バカにしてるし、自分たちを中心にしてクラスは回っているとなんとなく分かってるとは思う。実際そうだし。ダサい、みっともないって切り捨てることでこれまでやってきた人が大抵ではないのか。実際に本文に出てくる。

大人しい子たち、ああもう言葉選ぶのめんどくさい、ダサい子たちは ( P.151 )

これを見て背筋が寒くなった。ああ。やっぱりこう思ってるんだな、と。対してその「 ダサい子たち」はどう思ってるのか。

あのグループの人達とは接する機会もなかったし、接してはいけないと思っていた。(P.127)

あのグループというのはクラスでトップに近いグループのことだ。お互いに触れてはいけないと心得ていたのだ。自分たちは教室の端で、休み時間も集まり、弁当も食べるということを感覚的に悟っていた。クラスの人にバカにされながらも三年間耐えて、それなりの楽しみを見つけて卒業すると。上の立場、下の立場、どちらも見てきたがそれで私が思ったことは自分の立場から仲間以外の立場なんて分からない、ということだ。よく下の立場の人のことを考えましょうというがそれは下の立場の人のことを自分の立場から傍観し考えてみたというだけであって本当に下の立場の人の感情が分かってる訳でもなければそれをどうこうする訳でもない。かわいそうなんて最たる例だ。自分の立場から見下してああなんて悲運なんでしょうと言っているだけなんであって大抵の人はそこから行動を起こさない。そういう精神が高校生から身についているんだな、と考えさせられた。

この二つが私が読んではいけないと思った理由だ。この映画を見て、理解できないできたという論争になったがそれは下の立場ではないからではないかと思う。高校生活を惨めに思っている人程この映画は共感するのではないか。まあ、題名に桐島ってあるくせに桐島は回想以外で一言も発しないですけど。